呉春展を観に行った
2024年10月から11月にかけて、奈良市の大和文華館で「呉春展」が開催されました。
呉春(ごしゅん、1752~1811)は蕪村から絵を学び、俳諧の座をともにした、絵師俳人でした。あくまで画業が主ですが、俳号を月渓(げっけい)と言い、それほど多くはありませんが俳諧作品を残しています。
呉春展のカタログの巻末には月渓全発句が掲載されていましたので、今回は主にこれを鑑賞してみたいと思います。国会図書館デジタルコレクションでは月渓の句集が無料で閲覧できますので、そちらで読むことも可能です。
造幣役人、絵師となる
呉春の本名は松村文蔵と言い、京都の金座年寄役だった松村匡程の息子として生まれました。金座というのは金貨を鋳造していた組織で、今で言えば造幣局といったところです。呉春自身も若いころは金座役人をしていました。
ところで「呉春」は中国風に画名を名乗ったので、「松村呉春」とは呼ばれません。俳号のほうは「松村月渓」とされていたようです。
蕪村に入門して絵を学んだのは、20歳前後ではないかと言われています。師の画風をよく学んで、俳画風の省筆が効いた絵を描いていますが、蕪村の絵が軽妙そうでありながら意外と鋭く、一気に核心を突くような筆使いを見せるのに対して、呉春の絵はゆったりと優美で、彼のまろやかな性格がうかがえます。
呉春の絵を勝手に転載するのは問題がありそうなので、代表作「白梅図屏風」は逸翁美術館のHPをご覧ください。
若き絵師、句座に参加する
月渓の句が初めて俳書に見えるのは、1773年の句会稿『耳たむし』の中で、この22歳の頃から俳諧にも傾注したと考えられます。
仏壇に雨の漏る夜や郭公(ほととぎす) 1773
ホトトギスといえば梅雨のころに鳴くものと古来相場が決まっています。その梅雨時のあばら家の様子を巧みに描いた句。
白雨(ゆふだち)のくらまぎれより鵜舟かな 1773
「くらまぎれ」とは「くらやみに紛れた場所」の意味。漕ぎ出した鵜舟が夕立に降られてしまった。木陰に入って雨を避けていたのでしょうか、そろそろ雨も止みそうなのでゆっくりと進み始める。
したしたと漁火にしみ込しぐれ哉 1774
これも雨の中の漁を描いた句。「したした」というオノマトペアがうまい。
これら三句を読むと、「さすが絵師の俳諧、描写力にすぐれている」と言いたくなるのですが、実際には月渓の句は写生的というよりも、情味が濃く季題趣味のものが多い。情味といっても品格が落ちるようなことはないのですが、蕪村の句に比べると全体にのどかな感じです。
我頭巾猫にもきせてみたる哉 1774
猫の頬の灰も払ふやとしのくれ 1775
月渓は相当の猫好き。愛猫家には共感できる句でしょう。
蝸牛角にちからの見ゆるかな 1775
カタツムリよがんばれ、がんばれ。なんだか西村麒麟さんの句みたい。
しら露や力なき葉のうらおもて 1775
露が降りるころになると葉っぱもしおれてくるというのは、理屈ぽい常識ではありますが、「力なき」とか「うらおもて」あたりのことばづかいは上手。
うら枯の表へ出たるふくべかな 1775
葉っぱが枯れてくるとヒョウタンが目立ってきて、自己主張。
太夫との結婚、そして悲劇
月渓が蕪村から教わったのは絵画や俳諧だけではなく、遊びもだいぶん教授してもらったようです。島原遊郭によく通ったことが伝えられています。
1778年、27歳のとき、彼は島原の太夫、雛路を妻に迎えます(俗名はる)。夫婦仲は悪くなかったようです。
ところが1781年、実家に帰るはるが乗った船が沈没、彼女が水死するという悲劇が起きました。3年ばかりで終わった夫婦生活でした。
是生滅法と翌日(あす)降る雪の響かな 1778
「是生滅法」とは涅槃経に出てくることばで、「生命のあるものは、いつかは必ず滅びて死に至る」という意味。後年彼は
うき恋を女夫(めをと)になれば田うゑ哉 1786
という句を作っていますが、好いた惚れたといっていっしょになっても結婚すれば一介の夫婦、二人で田植えをやっているようなものだと回想したのかもしれません。
さらにこの年の夏、父の匡程が江戸で客死しました。相次ぐ身内の死に、月渓は髪を剃って法体となり、摂津の池田(現・大阪府池田市)に転居しました。
このころの月渓は、絵師としては駆け出しで経済的に余裕がなかったように思われます。池田では、蕪村門の呉服商、川田田福の出店に居候していたとのこと。ひょっとすると父の死によって家の財政がきびしくなり、京から池田に移住せざるをえなかったのかもしれません。
池田に住んだのは6年前後にすぎないのですが、池田市はこのことを誇りに思い、郷土の芸術家として顕彰しています。池田の逸翁美術館(阪急系財団)は呉春の絵画を多数収集・収蔵しています。
蕪村の厚情と死別
1783年、月渓は灘で酒造業を営む資産家の松岡士川を訪ねました。士川は蕪村門の俳人であり、かつて同じ蕪村門の吉分大魯が大坂で不始末をしでかして追放された際には、士川を頼って灘に落ち伸びています。蕪村は月渓に推薦状を持たせます。「この月渓という男は君子であって、以前ご迷惑をおかけした大魯や月居のようなゴロツキとは人間が違います。人物は私が保証します。絵のほうは当代無双の妙手です。俳諧もとても良い句を作りますし、横笛も吹け、非常に器用です。とくに絵画の技は自分も恐れるくらいの若者です」というように、大絶賛しています。
蕪村としては、月渓が士川から絵画の注文を得て経済的にうるおうように配慮して、紹介してあげたのでしょう。
ところがこの紹介の直後、蕪村は京の自宅で病没します。月渓は蕪村宅に駆けつけ、遺品を整理し、売り立てを行って、遺族の生計のための現金化を計りました。蕪村の娘、くのは婚家で離縁されて実家に戻っていたのですが、このころ再婚の話がまとまっていました。月渓が行った売り立てによる収益は、彼女の婚資にも充当されました。月渓は蕪村の遺品整理を全面的に任されるほど信用があり、また実務処理にも長けていたことがわかります。
整理中、月渓は師の机の上に読みさしの『陶淵明詩集』を見つけました。ページの間に、短冊が挟んであり、
桐火桶無絃の琴(きん)の撫(なで)ごゝろ [蕪村]
の句が書きつけられていました。中国の古代詩人、陶淵明が、琴を弾けなかったけれども酒を飲むと絃を張らない琴を撫でて楽しんでいたという故事にちなんだ句で、この短冊を栞にして蕪村は淵明詩集を読んでいたのです。月渓は短冊に継ぎ紙をしてそこに陶淵明の肖像を描き、売り立てに加えたのでした。
この師弟合作による陶淵明像は現在逸翁美術館に収蔵されています。画像を貼るのは控えておきますが、「蕪村 月渓 陶淵明」で検索するとネット上に出ているのが見つかりますから、ぜひ探してみてください。
美食の人、月渓
蕪村死去の翌々年、月渓は
わびしさや酒麩に酔る秋ひとり 1785
という句を作っています。句の背景はわかりませんが、師を失った悲しみを詠んだものかもしれません。酒を飲まなくても酒麩だけでよっぱらっちまったよ、という孤独を嘆いた句でしょうか。
ところでこの「酒麩(さかふ)」とは煮物で使う酒塩で煮詰めた麩だそうです。月渓は美食家として有名で、「くい物の解せぬ者は、なんにも上手にはならぬ」と豪語していました。とくに土筆と豆腐が好物であったと、上田秋成が書き残しています。池田時代には「一菜会」というおいしいものを食べる会を催していたといいます。掲句でも、「酒麩」とは洒落た一品を食したものですね。
作風の変化
月渓は1788年ごろには京に住居を移していたようです。蕪村門では彼は高井几董と仲よしで、師の死後も二人は親しく交わっていました。几董は誰からも愛される京都俳壇のキーパーソンでありました。
この1788年、京を焼き尽くす大火がありました。月渓も几董も焼け出されてしまいます。翌1789年には几董が急逝します。蕪村の後継者として期待されていた彼の死は、蕪村一門にとって大きな悲しみでした。
几董追悼の句として、月渓は
寝られねバ聞や霜夜の烏啼 1790
を寄せています。蕪村、几董という敬愛する二人が世を去って、どうやら俳諧への関心が減退してしまったようで、これ以後は彼は見るべき発句を残していません。
そのころ、友人の画家、円山応挙から「あんたのように文人画ばかり描いていては、食っていけないぞ。宮家から襖絵のような大作を依頼されようと思えば、画風を変えたほうがいい」とアドバイスされます。それを受けて、月渓(呉春)の絵は応挙風の写生的な描法に転じていきます。彼の作品は人気を高め、月渓は「四条派」の祖として仰がれるようになりました。
もっとも、毒舌家の上田秋成は、応挙一派が隆盛を極めたのは狩野派の画家が下手ばかりになったからにすぎない、応挙や岸駒が画料を吊り上げたせいで絵がやたらと高くなった、月渓は応挙の真似をしたが、彼の弟子はどれも十九文だとこき下ろしています。十九文というのは、今日百円ショップがあるのと同様、当時「十九文ショップ」というのがあって安物を揃えていたので、それになぞらえて皮肉ったもの。
月渓の連句
ここで月渓が加わった蕪村一門の連句を読んでみましょう。1775~76年頃に作られたと推定される歌仙(36句)、「身の秋や」の巻です。参加者は蕪村・月渓・八文字屋自笑・川田田福・寺村百池・江森春面(のちの月居)・几董の七人となっています。
身の秋やの巻
- 身の秋や今宵をしのぶ翌(あす)も有(あり) 蕪村
- 月を払へば袖にさし入(いる) 月渓
- 鞍鐙(くらあぶみ)露けく駒をすすませて 自笑
- 餅召さずやと声ひくめたる 田福
- 旅やどり古き家名(いへな)のうれしさは 百池
- 暮行(くれゆく)空の雪ふりぬべく 春面
蕪村の発句は、小倉百人一首の藤原清輔「ながらへば又此のごろやしのばれむうしとみしよぞ今は恋しき」のなぞり。「もの淋しい秋になったけれども、こんなわびしい秋の宵でもいつかは『あの頃はよかった』と思う日もあるだろう」という意味。
脇句は月渓。発句が秋なので(秋は原則として3句以上続ける)、3句以内に「月」を出さなければいけないというルールがあります。憂き心をのけるように月光を払おうとしたが、光はただ袖の中に入っていくのみであったという、幽玄の句。
第三は屋外の風景に転じて、月光に照らされて輝く露の野原を、騎馬の人が進んでいく。夜に移動するとは、人目をはばかる理由があるのでしょうか。
ところでこの歌仙、後でかなり蕪村が添削した跡が残っているそうです。発句はもとは「かなしさや釣の糸吹秋の風」、脇と第三も「露霜かれて草のおとろひ」「朝の月鳳輦遠く拝むらん」でした。似ても似つかぬ訂正です。「かなしさ」とか「おとろひ」といった暗い題材で始まるのは表六句にふさわしくないと思ったのかもしれません。推敲結果を見て、弟子たちは「ひゃー、これが俺の句か」とびっくりしたことでしょう。
第四、前句で夜に人目をはばかって行くのは落武者であろうと解釈して、「従者が小声で騎馬の主に餅を勧める」と詠んだ。
第五、前句は宿屋の主人が餅を勧めている場面だと読み替えて、「昔から残る古い屋号の宿屋というのは、風情があっていいものだなあ」と旅人が賛美している図。
第六、雪が詠まれて冬の句となります。暮れていく空は今にも雪が降りそうで、その前に良い宿に到着できてよかったと安心しています。ところで、第三で「露」が出ているのにここで「雪」を詠むのは本当はルール違反。露と雪はどちらも「空から降ってくるもの」という認識でともに「降物」に分類されるため、降物は三句去り(間に三句以上挟まなければ詠めない)という規則に反します。
- 煙たつ竹田の辺り鴨わたる 几董
- 明心居士の姪や世にます 自笑
- 声だみて物うち語る雨の日に 月渓
裏に入ります。七句目、竹田とは現・京都市伏見区の地名。古来水田地帯として歌に詠まれ、クイナが叩く音などが聞かれたそうです。その水田地帯に鴨が渡って来た。「煙」と「雪の中」は付合(連想関係語)になります。
八句目、「明心居士」とは17世紀の俳人、松永貞徳の別号。「貞徳って昔の人だと思ってたら、まだ姪御さんが生きていて、このあいだ竹田で会っちゃったんだよ」といった感じ。
九句目、姪御さんは雨の日に、だみ声で貞徳先生のことを話して聞かせてくれたんだよ。大打越(三句前)で「雪」が詠まれているのに、また降物の雨をここで詠むのはルール違反。こういうところ、蕪村の連句はちょっと甘いですね。
少し飛ばして、十五句目(裏9句目)に行きましょう。
- 能(よき)きぬも着つ又あしききぬも着つ 百池
- 暮をうらみてちりがての花 田福
- 月朧物見車のおもたくて 自笑
- 山なだらかに春の水音 月渓
十五句目、人生を振り返ってみると、いい服を着ていた時代も安い服を着ていた時代もあったなあ。
十六句目、いつまでも花を見ていたいのに、日が暮れてきてしまう。桜の花も散るのを惜しそうにしているよ。前句については、花見の席に着飾った人も貧しい身なりの人も混じっているという意味に読み替えています。花の定座は本来十七句目(裏11句目)ですが、前にずらした(引き上げた)形です。花の座は引き上げるのは可ですが、こぼす(後ろにずらす)のは不可とされています。
十七句目、「物見車」とは遊山のために貴人が乗る牛車のこと。花見から帰るのを惜しんで、物見の牛車も重たげにゆっくり進むことであるよ。月の定座は本来十三~十四句目(裏7~8句目)あたりですが、ここまでこぼしています。花の定座はこぼすのは不可ですが、月の定座は可とされています。現代連句でこれほど大きくこぼす例は珍しいのですが、芭蕉や蕪村はけっこう思い切ったこぼしをやっています。
十八句目、月渓はおとなしい叙景句で次へと流します。
ところで、裏の十二句の間に恋句らしいものがまったく見当たらないのは驚きです。蕪村の他の歌仙でも、裏ではっきりした恋がない例がいくつもありました。初折の裏に恋がないのを「素裏(すうら)」と言います。一巻の中で最低一度恋をやれば(名残表でやっておけば)ルール違反ではないのですけれどね。蕪村にとっては恋はそれほど重要な要素ではなかったのでしょうか。
ここからまた飛ばして、名残裏(三十一句目)を読んでみましょう。
- 秋の情扇に僧の筆すさみ 自笑
- 越(こし)みちのくのわかれ路の酒肆 月渓
- 声かれて老の鶏脛(はぎ)高き 春面
- なぐさめ逢(あひ)つ通夜の主従(しゆうじゆう) 百池
- 花深く檜皮(ひはだ)の廊下斜(ななめ)也 几董
- 比(ころ)は弥生のやや十日過 田福
三十一句目、秋の風情に心が動いた僧侶は、心のおもむくまま扇に何かを書き付ける。
三十二句目、北陸へ行くか、奥州へ行くかの分かれ道に出た。そこに一軒の酒肆が赤提灯を掲げている。「おくのほそ道」で、芭蕉が同道してきた北枝と別れる際に「物書(かき)て扇引(ひき)さく餘波(なごり)哉」の句を書いてやったという話が出てきますが、そのエピソードからの連想で「扇→みちのく」という発想をしたのでしょう。酒肆が出てくるのは、酒と食事が好きだった月渓らしいところ。
三十三句目、年を取って声が嗄れた鶏は長い脚をしているよ。「鶏」と「憂き別れ(後朝の別れ)」が付合なので、その連想で鶏を出したか。
三十四句目、「通夜」とは葬儀とは限らず、夜通し眠らずに寺社で祈願すること。主人と従者が、「徹夜はつらいなあ」「ご苦労様です」と慰め合っている。前句を、その通夜が明けて鶏が鳴く情景ととらえた。
三十五句目は花の座。通夜が行われたのは花が咲き誇る寺社だったのだが、花を斜めに横切るように檜皮葺きの廊下が伸びている。この句はかなり蕪村が直したらしいのですが、まだちょっとゴタゴタした表現で、美しくないですね。詠んだ高井几董は大器晩成型の俳人で、このころはまだ未熟だったように見えます。
三十六句目(挙句)は田福がさらりと付けました。挙句はこのように軽妙な句が求められます。
月渓の墓
月渓は1811年、60歳で世を去ります。洛南の大通寺に埋葬されますが、同寺が荒廃したため、1889年に蕪村の墓所である洛東の金福寺に改葬されました。今でも洛東を訪れれば蕪村のものと並ぶ呉春の墓に会うことができます。
金福寺の月渓(呉春)の墓(右)